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別府の竹工芸を守り、伝える人間国宝 岐部笙芳

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別府の竹工芸を守り、伝える人間国宝 岐部笙芳

2024年秋、大分県内では、“竹細工を芸術へと高めた人物”とも言われる生野祥雲斎に次ぐ、竹芸分野で2人目の人間国宝 岐部笙芳が誕生しました。

今回は、岐部さんが竹工芸の道へ踏み出したきっかけや、苦難の道のりなど、竹工芸と歩む人生について、そしてこれからの未来を創る竹工芸の後継者育成についてもお話を伺いました。

偶然の出会いから竹の道へ

「私はね、竹に憧れて、竹工芸を始めたわけじゃなかったから。あの時恩師と会っていなければ、竹はやっていないですね」。
岐部笙芳(きべ せいほう 本名:岐部正芳)さんへのインタビューは、こんな言葉から始まりました。
 
岐部さんは、玖珠郡九重町出身。高校卒業後は17年間、地元のガソリンスタンドで働いていました。転職を考えていたある日、中学時代の恩師と偶然再会。恩師からの「ものづくりをやってみらんか?」ーそのひと言が、竹との出会いのきっかけでした。

当時の岐部さんは、竹芸の人間国宝・生野祥雲斎の名も知らず、竹工芸家に興味があったわけでもありません。恩師のひとことから、別府高等技術専門学校(現:竹工芸訓練センター)があることを知り、さらに「次の年度の生徒募集はすでに締め切っているが、来年の参考のために見学に行ってみたらどうか?」というアドバイスを受け、早速見学へ行ったことがきっかけです。

行った先で、「今年はたまたまキャンセルが出て、1人枠が空いている。今ならまだ間に合う」と学校から告げられました。職業訓練校なので、ハローワークを通した申し込みが一般的ですが、それでは、入学に間に合わなかったことから、失業保険などを受けることはあきらめ、「生活はなんとかなる」と、入学を決めました。これが岐部さんを竹工芸の道へと進ませることとなりました。

以前から、近所の方が竹細工をしているのは見ていたものの、「自分が竹に関わるイメージも持てなかった」という岐部さんを、竹に引き寄せたのは、学校に手本としてあった「鉄鉢(てっぱち)」。「その鉄鉢を見てね、『こんなものがあるんや!』と、感動したんですよ」と。そして同時に、「(ここで学んだら)これが作れるようになるのかな。作れるようになったら、売ることができ、これで生活できるんじゃないか」そんなことを妄想し「竹への気持ちが繋がったんですよ。」これが、竹との縁ができた運命の出会いでした。
 
その「鉄鉢」は、生野祥雲斎が、僧侶が托鉢をする際に持っていた鉄製の丸い鉢「鉄鉢」を模して竹かごを作ったのがきっかけで生まれたそう。将来の人間国宝を竹の道に導いたのは、竹工芸界の初代人間国宝だったのかもしれない…。不思議な縁を感じてしまいます。

技術習得に没頭した学校時代

竹の世界へ、37歳で飛び込むことになった岐部さん。別府高等技術専門学校では1年間、技術の習得に没頭します。ギャラリーなどに通い作品を見る機会も増やしました。「森上仁さんの日展に入選した作品がある」と聞いて訪れたギャラリーでは、0.6mmや0.7mmの細いヒゴで制作された大きな作品に圧倒され、さらに作品制作意欲に火がつきました。
 
森上さんの作品に圧倒され、「1mm以下のヒゴで作品を作ってみよう」と挑戦して生まれたのが、最初の公募展出品作となる<夕凪>に使われている編組のパターン。自分が編んだものを客観的に見た時、「この部分のパターンで、海が表現できる」と発見。
卒業後は、竹工芸家の本田聖流氏の元で、伝統的な技法の指導を受けます。
自身の創作を続けるうちに「展覧会へ出したい」という思いが芽生えたと同時に、周囲の反対を押し切ってこの道に進んだ覚悟を形で示したいとの思いも生まれました。

その時に仕上げたのが、学生時代の自主練習から生まれた“海のパターン”を取り入れたかご。すでに“編み”の部分はほぼ完成していたものの、縁や高台の付け方が分からず、未完成のままになっていましたが、本田さんのアドバイスもあり、ようやく完成。第26回「西部伝統工芸展」に出品し、見事大分市長賞を受賞しました。それが、現在『大分県立美術館』に所蔵されている「花籃 夕凪」。岐部さんは「この作品があったからこそ、今がある」と振り返ります。

「夕凪」は、幅1mm以下、厚みも0.5mmほどの細いヒゴで編み上げた、繊細な編みが特徴的な作品。1段に10時間以上かかっているそうで、「あの頃は時間があったからできたが、今ならできない。そして今挑戦しようとしても、なかなかこの形にはならないんです」と、竹工芸の奥深さを語ってくださいました。

苦境から世界へ。竹が導いた転機

「竹は、生活的には本当に厳しい仕事」。そう分かっていながらも、岐部さんは竹工芸の道を選びました。初めての公募展で受賞し、順風満帆に思えた竹の世界。しかし、卒業後に待っていたのは、現実の厳しさでした。
バブル崩壊で需要は激減。40代は、竹の仕事が少なくなる冬場に建設現場でアルバイトをしながら、夜は作品づくりに打ち込む日々。「あの頃はお金はなかったけど、手を動かしていると不思議と楽しかった」と笑います。続けるうちに、竹の奥深さや面白さを改めて知り、ますますその世界に惹かれていったといいます。

公募展への出品を続ける中、努力は少しずつ実を結び、1993年に日本伝統工芸展に初入選。2000年には西部伝統工芸展で朝日新聞社銀賞を受賞し、『日本工芸会』※の正会員に。「もうアルバイトをやめて、竹一本で生きよう」と覚悟を決めたのもこの頃でした。
とはいえ当時は、竹細工と言えばバッグが主流の時代。「売れるのはバッグだけ」と言われ、バッグを製作していたものの、「本当は作りたくなかったんですよね」と当時を振り返り、岐部さんは苦笑します。

そんななか転機は突然訪れました。ある日、工房にふらりと現れたのが、アメリカの『TAIギャラリー(現・TAI modern)』のオーナーで、日本の竹工芸に精通するロバート・コフランド氏。「『なんでバッグばかり作るのか?』と聞くから、『これ(バッグ)を作らんと生活ができん』と答えたんですよ。そしたら、バッグ以外の作品を見たいということで、うちにあった作品をいろいろ見ていただいた。そうしたら『これとこれを作ってくれるか?』って」。その依頼を受けて作った作品をロバート氏が高く評価し、海外への道が開けました。

TAIギャラリーでは、竹工芸を“アート”として取り扱っていました。そのオーナーに作品を認められ、制作を依頼されたのです。「そこからロバートさんとの付き合いが始まって、アメリカのコレクターたちとの関係も始まるわけです」。

2007年には、サンフランシスコ・アジア美術館に招かれ、実演ワークショップを行います。
「アメリカの人たちはね、何時間も前から美術館に来て、デモンストレーションを楽しみに待ってるんですよ。あの時初めて自分を“アーティスト”として見てもらえた」と嬉しそうに語りました。作品が売れるだけでなく、その背景や情熱にまで興味を持たれ、「これまでやってきたことは無駄じゃなかった」と実感した瞬間だったと言います。

2009年には、ロバート氏の勧めでニューメキシコ州サンタフェにて初の個展を開催。作品は次々と海外コレクターの手に渡り、いまでは制作の約8割が海外向けだといいます。
生活も安定し、これまで以上に作品作りにも没頭。2013年の日本伝統工芸展では、<花籃「残照」>で第60回展記念賞(優秀賞)を受賞。翌年には紫綬褒章を受章します。
長い下積みと、編み続けた日々の先にあったのは、“竹”が世界とつながる瞬間。静かな手しごとの中で積み重ねてきた時間が、確かに花開いたのです。
 
※『日本工芸会』:重要無形文化財保持者(人間国宝)を中心に、伝統工芸作家や技術者などで組織。会員には正会員、準会員、研究会員があり、それぞれ入会資格が定められている。正会員は、日本伝統工芸展で4回以上の入選が必要。


 

技を開き、道をつなぐ

2024年10月。岐部笙芳さんは、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。長年にわたる作品制作の功績はもちろん、後進の育成や竹工芸の継承に尽力してきた姿勢が高く評価されました。
岐部さんは「認定されたからといって、私がすごいわけじゃない。祥雲斎さんをはじめ多くの人が竹芸を続けてきてくれたおかげで、私があり、竹の文化が大分に残っているのだと思う。先輩方が続けてきたことを(受け継いで)、ここまで続けてきたことことのご褒美なのかな」と語ります。

5年前からは、教室も開催。現在は5名の生徒に教えています。
「私の作品作りの中では、できていく工程が一番大事。だからこそ、その過程を生徒さんに教えるんです」。
かつては技法や制作方法を細かく教えるものではない、という考えが一般的でした。しかし岐部さんは隠すことなく教え、美術館などでのデモンストレーションも断りません。
「昔はね、スポーツ選手が練習中に水を飲んだらいかんとか言われてたけど、今は自由でしょう。教え方も時代に合わせて変わらんと。私は『どんどん真似していいよ』って言ってるんです。自分は“みんなの手本づくり”をしてるくらいの気持ちですから」。

そんな岐部さんの根底には、故・早川尚古齋の教えが深く息づいています。
人間国宝である早川氏は指導の際、代々続いている作品の設計図を見せてくれました。本来作品は図面など残さないもの。でもその技術を継承していくことにこそ「人間国宝になるとは、こういうことか」という覚悟を感じたと言います。
 
「早川先生が大事にしていたことは『技術は作品の内に秘めるもの』。技術を全面に出したり、ものを技術で作るようになったらだめ、と。その言葉に、『さすがじゃな』と思った。慣れるとね、技術で要領よく作ってしまう。それが一番いかんこと。でもね、技術がないと作品作りもできんから・・・」そのバランスが一番難しいと言います。技術が自然と身につき、技術力で勝負するのではなく、作品そのものから醸し出す個性がいちばんの魅力だと語ります。

「作品には、その人の性格や考え方が出る。上手い下手ではなく、その人の生き方そのものが形になる。できてくるものと本人は共鳴するんです。竹を通して、自分の人間磨きをさせてもらっている。作品は、鏡ですね」。

そう語る眼差しは、どこか穏やかで、それでいて強い光を宿しています。

指導者として、伝統工芸展に入選する人を増やし、「別府で正会員を5人に増やしたい」と後継者育成への目標をも語ってくださいました。


後継者育成という人間国宝としての責任も感じながら、今もなお岐部さんは制作を止めません。指導の合間を縫って、自身の作品づくりに取り組んでいます。
 「保持者になって、伝統工芸展に出品できなかったら、何のために認定されたか分からない。認定をされて、作品を作って、後生に伝えていく。その大きな目的を達していくことが自分の使命」とも語ります。


その姿からは、竹を通して人を育て、文化を未来へと編み継ぐ決意が伝わってきます。

何も知らずに飛び込んだ竹の世界が、いまや人生そのものになった。
「私と竹の関係は、追い求めずやってきたことが、自然といい結果に繋がってきた。竹との縁が繋がっていると感じます」。

今日もまた、長年使ってきた制作机で竹と向き合い、新たな作品作りに挑んでいます。

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